だれも長生きがしたいがために

       十二の六

 だれも長生きがしたいがために、肥ゆれば喜びやすれば悲しむけれども、前回に証明したるごとく、実は太り過ぎているよりもやせている方がはるかに安全なのである。財産もまたかくのごとし。その乏しきこと度に過ぐるはもとより喜ぶべきことにあらざれども、その多きこと度に過ぐるもまたはなはだのろうべきことである。ことに肥えたと言いやせたと言うもからだだけのことならばその差もおおよそ知れたものであるが、貧富の差になると、すでに上編に述べたるごとく、今日は実に驚くべき懸隔を示しておるのであるから、経済学者という医者の目から見ると、貧の極におる人も、富の極におる人も、いずれも瀕死《ひんし》の大病人なのである。たとうれば、今日の貧乏人は骨と皮とになって、血液もほとんどかれ果てたる病人のごときもので、しかもそういう病人の数が非常に多いのである。しかし金持ちはまた太って太ってすわれもせず歩けもせず、顔を見れば肉が持ち上がって目も口もつぶれてしまい、心臓も脂肪のためにおさえられてほとんど鼓動を止めおるがごとき病状にあるものである。貧乏人に比ぶればその数は非常に少ないが、しかしこれもなかなかの重病患者である。 人は水にかわいても死ぬがおぼれても死ぬものである。しかるに今や天下の人の大多数は水にかわいて死んで行くのに、他方には水におぼれて死ぬ者もある。それゆえ、私はここに回を重ねて富者に向かいしきりにぜいたく廃止論を説く。奢侈《しゃし》の制止、これ世の金持ちが水におぼるるの富豪病より免るる唯一の道なるがためである。 貧乏人は割合に気楽である。衣食給せざるがためにおのれが身心を害する事あるも、これがためおおぜいの他人に迷惑を及ぼすという事はまれである。しかし金持ちはぜいたくをするがためにただにおのれが身心を害するのみならず、同時に世間多数の人々の生活資料を奪うのであるから、その責任は重大である。自分が水におぼれて死ぬのみではなく、自分が水におぼれて死ぬがために、天下の人を日射病にかからすのであるから、その責任は実に重大である。古人も「飲食は命を持《たも》ちて飢渇を療するの薬なりと思うべし」と言っておられる。ただその薬なきために一命を失うもの多き世に、薬を飲み過ぎて死んでは申し訳なきことである。一夜の宴会に千金を投じ万金を捨つる、愚人はすなわち伝え聞いて耳をそばだつべきも、ひっきょうはなんの世益なくやがては身を滅ぼすの本《もと》である。 ひそかに思うに、世の富豪は辞令を用いずして官職に任ぜられおるがごときものである。私はすでに中編において、今日社会の生産力を支配しつつあるものは一に需要なる旨を説いた。しかるにその需要、その購買力を有すること最も大なるものはすなわち富豪なるがゆえに、ひっきょう社会の生産力を支配し指導する全権はほとんど彼らの掌中にゆだねられているのである。貧乏人もおのおの多少ずつの購買力は有しているが、もちろんそれはきわめて微弱なもので、たとえば衆議院議員の選挙権のごときものである。これに比ぶれば、富豪の購買力は、議会の多勢に擁せられて内閣を組織しつつある諸大臣の権力のごときもので、かつその財産を子孫に伝うるは、あたかも天下の要職を世襲せるがごときものである。古《いにしえ》より地獄の沙汰《さた》も金次第という。今この恐るべき金権を世襲しながら、いやしくもこれを一身一家の私欲のために濫用するがごときことあらば、これまさに天の負託にそむくというもの、殃《わざわい》その身に及ばずんば必ず子孫に発すべきはずである。このゆえに、富を有する者はいかにせば天下のためその富を最善に活用しうべきかにつき、日夜苦心しなければならぬはずである。ぜいたくを廃止するはもちろんのこと、さらに進んではその財をもって公に奉ずるの覚悟がなくてはならぬと思う。[#地から1字上げ](十二月二十二日)

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