社会組織の改造

 社会組織の改造よりも人心の改造がいっそう根本的の仕事であるとは、私のすでに幾度か述べたところである。思うにわれわれの今問題にしている貧乏の根絶というがごときことも、もし社会のすべての人々がその心がけを一変しうるならば、社会組織は全然今日のままにしておいても、問題はすぐにも解決されてしまうのである。 その心がけとは、口で言えばきわめて簡単なことで、すなわちまずこれを消費者について言えば、各個人が無用のぜいたくをやめるという事ただそれだけの事である。私が先に、富者の奢侈《しゃし》廃止をもって貧乏退治の第一策としたのは、これがためである。 思うにこのぜいたくということについては、今日一般に非常な誤解が行なわれているようである。たとえば巨万の富を擁する富豪翁が、自分の娘のために千金を投じて帯を買うというがごときは、無論|当然《とうぜん》のことと考えられているのであって、その事のために自分らは飢えている貧乏人の子供の口からその食物を奪っているなどいうことは、彼らの全く夢想だもせぬところであろう。おそらく彼らも普通人と等しく、また普通人以上に人情にあつい善人であろう。そうして自分の娘の衣装のために千金を費やすというがごときは、自分の身分に応じ無論当然のことで、自分らがそういう事に金を使えばこそ始めて世間の商人や職人に仕事もありもうけもあって、彼らはそのおかげでようやくその生計をささえつつある、というくらいに考えているのが普通であろう。しかしながらこれは全く誤解であるのである。そうしてこの誤解のためにどれだけ世間の貧乏人が迷惑しているかわからぬのである。 なぜというに、今日一方にはいろいろなぜいたく品が盛んに作り出されているに、他方には生活必要品の生産高がはなはだしく不足していて、それがために多数の人間は肉体の健康を維持して行くだけの物さえ手に入れ難いということになっているのは、すでに中編にて述べたるごとく、ひっきょう余裕のある人々がいろいろな奢侈《しゃし》ぜいたく品を需要しているからである。もしさし当たって事の表面を見るならば、商人がいろいろな奢侈ぜいたく品を作り出してこれを販売すればこそ買う人もあるというように考えられるけれども、それは本末転倒の見方なので、実は、そういう奢侈ぜいたく品をこしらえて売り出す人があるから買う人があるのではなく、そういう物をこしらえて売り出すと買う人があるから、それで商売人の方ではそういう品物を引き続きこしらえて売り出すのである。もちろん売ると買うとこの両者の間には互いに因果関係があるのであるから、生産者の責任のこともいずれのちに説くつもりであるが、しかしいずれが根本的かといえば、生産が元ではなくてむしろ需要が元である。もしだれも買い手がなかったならば、商人は売れもせぬ物を引き続きこしらえていたずらに損をするものではない。いくらでも売れるから、次第に勢いに乗じて、さまざまの奢侈ぜいたく品を作り出すのである。そこで田舎《いなか》にいて米を作るべき人も、都会に出て錦《にしき》を織るの人となる。農事の改良に費やさるべき資金も、地方を見捨てて都会にいで、待合の建築費などになる。かくて労力も資本も、その大半は奢侈ぜいたく品の製造のために奪い取られて、生活必要品の生産は不足することになるのである。[#地から1字上げ](十二月十三日)

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